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28号

日本の有名運河から貞山運河を考える

有名な琵琶湖疏水・小樽運河と貞山運河を比べてみましょう。

 ~琵琶湖疎水~

滋賀県大津市から京都市鴨川合流点までと、分岐する疏水分線の全長23キロの「第1疏水」、第1疏水の北側を全線トンネルで並行する全長約7.4kmの「第2疏水」などから成ります。

1881(明治14)年、北垣京都府知事は琵琶湖から引いた水力で新しい工場を、舟運による物流インフラをつくろうと計画し、1885(明治18)年工事開始。延べ400万人の作業員を動員して1890(明治23)年に完成しました。第1疏水です。最も大きな功績は水力発電であったと言います。それは町の電灯をともし工場の機械を動かす電力となり、日本発の電気鉄道営業(のちの京都市電)も始まりました。また大津~京都~大阪までの舟運ルートが開けたため物流が拡大し、経済と産業がさらに発展しました。なお舟は大津に戻らなければなりませんが途中で上りきらないところがあるため水路落差のある2カ所で傾斜鉄道が敷設されました。船を水から引き上げて台車に収納し運ぶのです。これが蹴上インクライン582mと伏見インクライン291mで 1890年代(明治23~)に完成しました。

電力需要もさらに高まり、第2疏水が1908(明治41)年着工、1912(明治45)年完成します。上水道の水源にもなるので全線を掘抜きトンネル又は鉄筋コンクリート管の埋立てトンネルとして設計されています。第2疏水と同時に日本初の「急速ろ過」方式を採用した蹴上浄水場が完成しました。完成の翌月には、蹴上浄水場から水道水の供給が始まりました。第1疏水の北側にほぼ平行して建設され蹴上で第1疏水に合流しています。

~小樽運河~

小樽運河は、陸地を掘り割って造成する一般的な運河とは異なり、小樽港の整備、埋め立て工事の一環として造成されました。小樽は函館と並んで北海道開拓の主要な港町でした。小樽港は、明治22年に特別輸出港、同27年には特別貿易港、同32年には国際貿易に次々と指定され、寄港する船舶と取扱い貨物が急増しました。そして1914(大正3)年、運河の工事着工、1923(大正)12年に竣工しました。全長1140mの運河には、100トン積の艀(はしけ)40隻が同時に係留できるようになり、港岸はすべて倉庫用地として利用できるようになりました。

その後小樽経済は飛躍的に発展し、北日本随一の経済都市に成長しました。しかし、昭和2(1927)年から開始した小樽港第二期修築工事で埠頭の建設が次々と進められ、昭和7年には堺町岸壁が完成。当時、すでに埠頭に接岸して直接船から貨物の積み下ろしができるようになりつつあり、運河は短期間でその役割を終えました。昭和61年、運河の一部が埋め立てられ、散策路等が整備され、現在の姿に生まれ変わりました。(ウキペディア琵琶湖疏水、日本遺産琵琶湖疏水、ウキペディア小樽運河、小樽運河100年 ―小樽運河の誕生と衰退、再生の歩み―Otaru Next 100 実行委員会小樽運河竣工100周年 小樽市を参照しました)

~貞山運河~

両運河と比べますと貞山運河は規模、歴史で圧倒していますが観光面では大きく劣っています。観光資源化にあたって琵琶湖疏水は「日本遺産」の登録を勝ち取りましたし小樽運河も官民挙げての観光化を推進して来た経緯があります。貞山運河も規模、歴史を生かし一層魅力を増し賑わいを創出するかが問われています。今こそ官も民も一緒になって観光資源化する時です。

貞山運河一口メモ

木曳堀と伊達政宗

木曵堀(こびきぼり)は阿武隈川河口から名取川閖上まで約15キロ。政宗公が命じた仙台城下建設のための運河であると同時に湿地の排水路でもありました。ですから曲がりくねった部分も多く後年できた御舟入堀や新堀の光景とはやや趣を異にします。開削時期は明確ではありませんが1610年前後(慶長年間)とされています。

↑自然の地形を生かして作られたと言われる木曳堀

このあたりで当時の状況を振り返ってみましょう。

1600年(政宗34歳)9月関ケ原の合戦で家康勝利。同年12月政宗仙台城普請の縄張り開始。

1601年(政宗35歳)1月普請開始。4月政宗公仙台城に入る。

1602年(政宗36歳)家臣・町民岩出山から仙台へ移住。

1603年家康征夷大将軍として江戸開府

1605年徳川秀忠2代将軍へ

1605年(政宗39歳)仙台藩登米郡で北上川改修工事開始。1626年改修工事完成。

1607年(政宗41歳)塩竃神社、大崎八幡宮、陸奥国分寺薬師堂造営

1609年(政宗42歳)松島瑞巌寺方丈上棟

1610年(政宗44歳)仙台城大広間造営なる

1613年(政宗47歳)支倉六右衛門常長月浦から出帆(慶長遣欧使節)

こうやって見ますと政宗公は戦いに明け暮れた20歳台、家康による天下が始まる30歳代を経て豊かな国づくりを目指した40歳代のあたりにこの木曵堀が開削されたことがわかります。現代の40歳代は働き盛りですが政宗公の元服が11歳、当時40歳を超えていること自体長寿とされていたようですから現在の年齢感覚とは異なるのでしょうね。

政宗公は若い時から転戦に次ぐ転戦、秀吉からも家康からも疑惑の目を向けられながらも確固たる地歩を確立し将来を見据えた領国経営を行いました。

天下が収まった後も家臣団のリストラを行わずインフラ整備に力を注ぎ、石高を増やし、藩を富まし海外貿易も目論んでいた政宗公の慧眼は畏るべきものがあります。

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