第35号
~第3回歴史セミナー開催~
今回のテーマは「御舟入堀」。
3月8日(土)会場の仙台市博物館には開場30分前から人々が立ち並ぶ盛況ぶりでした。
最初に登壇したのは大和田副会長
「貞山運河のいまと新しいまちづくり 震災から14年」の題で運河が津波を減衰させたこと、深沼海水浴場の復活や東北大ボート部が戻ってきたことなど、街の再生や運河が復活してきたことを解説しました。
さらに若林区藤塚に船着き場や親水護岸などが3年後に完成し湿地と干潟を生かした自然公園が誕生し50年ぶりに渡し船と舟運がよみがえること、運河のしゅんせつ工事や水門を開けてきれいなせせらぎにしていつか屋形船を浮かべて花火見物をしたり、仙台空港から海外の客を乗せて貞山運河めぐりを楽しみましょう、と語りました。
歴史を知り、現在を考え、未来につなぐ夢のある講話でした。

次に登壇したのは菅野正道氏(郷土史家、元仙台市史編さん室長)
「仙台藩政史における御舟入堀の意義」。

最初に御舟入堀が開削された時代の説明です。
伊達綱宗が3代藩主になったのは万治元(1658)年、北上川下流右岸開発のための広渕沼築造が寛文2(1662)年、大地震で仙台城本丸の石垣が大規模崩壊したのは寛文8(1668)年、伊達安芸が後見政治に問題ありと幕府に訴えたのが寛文10(1670)年、七北田川改修工事を終え河口が湊浜から蒲生に変わったのが同年、大老酒井邸で仙台藩重臣らの刃傷事件発生が寛文11(1671)年、そのような状況下で御舟入堀が寛文13(1673)年に竣工します。
江戸時代初期における仙台城下への名取川、広瀬川、阿武隈川、木曳堀を活用した物流ルートや政宗が若林城築城時に企図した水運を縦横に活用する城下町構想が説明された後、次の説明がありました。
(以下配布資料抜粋)
寛文年間における仙台城下の課題
・2代藩主忠宗の治世下以降も仙台城下は北東~東方面に拡大を続けた。⇒ 城下の計画的な利活用が求められた ⇒ 寛文5年(1665)の「仙台惣屋敷定」制定 ⇒ 城下の居住人口が増加 = 仙台城下で必要とする食料需給が増大
・一方で、名取川・広瀬川水運が放棄されたため、閖上からの重量物資の輸送は陸路を用いなければならなかった。さらに、閖上は名取川が運ぶ土砂で河口部が不安定で、湊としての機能が十分に果たせない事が多かったと推定される。
・御舟入堀は仙台城下の発展に伴って需要が増加した物資を、水運を用いて効果的に輸送しようとして 開削されたもので、七北田川の流路変更、御舟曳堀の開削、蒲生における蔵場の設置が一体となった大規模な事業だった。
・同じ時期に北上川流域における藩直営の大規模な開発事業(広淵沼の築造と一体の新田開発)や仙台城下と山形を結ぶ街道の整備(野尻宿の整備など)など、領内整備事業が行われていたことも注目する必要がある。
・当時の仙台藩は、藩主が幼少で政治的には非常に不安定で、寛文事件=伊達騒動と称される御家騒動の真っ只中にあったが、政治的抗争の中で、大規模な領内整備事業が実行されたことは、藩政を主導していた後見人=伊達兵部宗勝・田村右京宗良の政治方針に基づくものと推測される。 後見政治を含めた寛文事件については、このような視点も含めて再評価することも必要と考えられる。
豊かな学識に裏付けられた解説に会場の人は魅入られていました。
三番目にご登場したのは多賀城市埋蔵文化財調査センターの瀧川ちかこ氏。(多賀城市埋蔵文化財調査センター普及啓発専門員)
「御舟入堀にみる歴史的風致 ~塩釜・多賀城」。

中世までの七北田川は多賀城市内を流れる砂押川と合流し七ヶ浜町の湊浜で海に注いでいた。かつて塩竈神社表参道付近までは海が入り込んでおり、ここから塩竈市、岩切、今市、燕沢、原町、仙台城下へ陸送された。塩竈神社から大日向に向けては急坂のため輸送に困難を伴った。風土記には砂押川は市川と書きあげられ七北田川に合流し湊浜で海に入る宮城郡第一の大河であった。大舟も通ったが津波で埋まり小川になってしまった、と。
湊浜へ流れていた七北田川の下流域が少しの出水でも氾濫を起こしていたことから新たに堀を開削し蒲生へ川筋が廻された。この時の付け替えは全面的なものではなく、徐々に本流河口の閉塞は進み、岩切までの舟の就航は困難になったことから、それに代わるべき堀の開削が計画されることとなった。
御舟入堀は仙台藩領北部から仙台城下へ大量の物資輸送を目的に塩竈湾から七北田川の付け替えがなされた蒲生までを開削するもの。その時期は風土記には万治年間(1658~1660)の開削としていることからこの時期には着手されていたのではないか。御舟入堀の工事責任者和田織部房長が塩竈神社に奉納した灯籠2基には寛文13(1673)年の年号が刻まれているので、これが工事完了の年とみなされる。
開削から完成まではつぎのとおり。
・万治年間(1658~1660)には少なくても牛生(ぎゅう)から大代・八幡村までの開削に着手
・寛文10(1670)年には七北田川の付け替えがほぼ完了。八幡~蒲生までの開削もある程度推進?
・寛文13(1673)年には御舟入堀、七北田川,御舟曳堀という一連の舟運機能の整備が完了
房長の家格は着座、知行高は1530石であった。和田氏は大和国の住人だったが養父為頼が13.4歳時に伏見で政宗に召し出され伊達家に仕えるようになる。蒲生に知行地と屋敷を与えられる。財政担当の出入司になるのは4代藩主綱村の時。蒲生では新田開発に努め和田氏の館跡近くには「和田新田」と言う地名が残されている。
御舟入堀は水量調節の関係で七北田川とは直結していなかった。また七北田川と御舟曳堀も直結していなかったことから、蒲生と鶴巻には荷物の積み替え用の舟溜まりがあり、米の一部保管用の米蔵も設けられた。
御舟曳堀とは七北田川から仙台城下に至る物資輸送の水路で普段は空堀で、必要な時に水を入れ、不要になった水は並行して流れる梅田川に放水した。
御舟入堀の開削により、舟は塩竈を素通りする結果となり、塩竈は衰退してしまった。4代藩主綱村はこうした状況を憂い特令を発しコメ以外の荷物、魚介類、材木を積んだ舟はすべて塩竈湊へ着岸することとしたため塩竈は繁栄を取り戻した。
しかし元禄3(1690)年漁民から風向きや潮の流れによっては塩竈に入れず生魚の鮮度が落ち漁民・商人が困窮してしまうことから自由に塩竈以外の港に入らせてほしいとの訴えが起きた。
藩はこの訴えを受け、3月から8月までの間は自由な入港を許した。その結果、魚介類は浜方~大代~八幡~中野~福室~苦竹を通る浜街道を利用して城下に運ばれた。
御舟入堀は藩主も利用した水上交通路だった。
明治時代には野蒜築港事業に伴い貞山運河の改修工事が行われ、干潮時16~25m,水深1.5mにするもので明治22(1889)年完成した。現在見る運河の景観はこの工事によるものである。
古文書、絵、図を多用してわかりやすく説得性がありました。多賀城市の歴史遺産や文化財関係でご活躍の瀧川氏ならではの詳細な講話でした。
総会のお知らせ
時:5月21日(水)13:30~15:30
所;仙台市青葉区一番町2-5-22
GC青葉通りプラザB1F会議室
※後日正式にご案内を差し上げます。
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